私はいまでいう発達障がい児だったと思う。
じっと黙っていたかと思うと衝動的に弟の顔をひっかく。
幼稚園で1学期中イスの下に隠れて出てこない。
かと思えばかくれんぼして禁止されてるストーブの陰に隠れ、飛び出して電気ストーブのコードに足をひっかけ、水飲み器のボタンに額を打ちつけて割る。トランポリンが楽しすぎて異常に強く踏ん張り下に落ちて腕を脱臼する。
3歳の自分が保育士である自分のクラスの子どもだったら生きた心地がしないだろうと思う(苦笑)
ずっと多動ならまだしも愚鈍のように押し黙ってじっとしてるかと思うと、あり得ない方向に突然動き出す。子どもの自分なりにルールがあるのだが言葉が拙くて大人に説明できない。何かしたいとひとたび脳に信号が走るとそれ以外考えられなくなる。令和のいまなら発達凸凹だのグレーだのADHDだのという言葉はあるが昭和40年代そんな言葉はかけらもなく、自分の中では整合性の取れている行動に大人が戸惑う、怒ることにどうしてよいかわからなかった。幸か不幸か両親も私を上回る発達グレーだったので私がおかしいことにあまり深刻にはならなかったようだ。
しかし成長するにしたがって周囲の常識には鈍感な癖に自分に向けられる感情には過敏な私はできるだけ目立って大きく動かないよう細心の注意を払ってこそこそと生きるようにした。ただでさえ当たり前に行動できないので、はみだしいじめられたからだ。
大人になってたまたま幼稚園教諭になったのだが、どうにも子どもをしつけられない。まだ昭和の幼児教育は幼児の自主性より躾や社会性を育むことがメインだ。あまりのしつけ能力の欠如に毎日職員会議で叱られ、終いには泣く私を主任が更衣室に引っ張って行って
「今度職員会議で泣いたらあなたとは口をききません」
と言われてしまう始末(ソノセツハスミマセン)
そんなある日の秋、広い公園に全員で散歩に出かける。当時年長は2クラス。担任はA先生と私(びっくりだが当時、40人ずつの幼児に担任一人ずつだった)
私のクラスの子はすぐ落ち葉を集めて舞い上げたり、ダイブしたり、木の実を拾って人形を作ったり、おままごとをしたり思い思いの遊びをてんでに始めたが、A先生のクラスの子は立ち尽くしてじっとA先生からの指示を待っている。
その日の職員会議で主任に
「来週、A先生と○○先生(私)は一週間クラス担任を代わってください」
と言われる。ずっと叱られ続けた私だが、ここにきて品行方正なA先生のクラスの問題に主任が気づいたからだった。時は昭和の末で男女雇用機会均等法とともに幼稚園の教育方針も大きく見直され子どもの自主性が盛り込まれ始めたころだった。
20代前半の私はこれといって教育に高邁な理想をもっていたわけではない。ただ、働くのが辛くなった時に、大人として、先生としてではなく、子どもたちの親分として自分の特性の所為で委縮させられ、らしく生きられなかった子ども時代を取り戻すつもりで子どもと向き合うしかないと思った。だからいつも遊びは本気で自分ごとだった。段ボール一枚が目の前にあったらそれで何が作れるかどうやってあそべるか子どもたちと話し合った。園庭中広がる大きな段ボールの迷路を作ったときは
「先生が発案者なんだからまず先生が一番に入る」
と主張した(笑)
以来何十年も私には保育というのは少し年長のリーダーとして子どもと同じ目線で自分事として日常を共に過ごすということだった。
何十年もの保育士生活のおかげで私はようやく歪だった子供時代を取り戻すことができた。発達については苦労はしたが特に医療にかかることもなく生きてこられた。これもこどもたちのおかげだと感謝している。育ててもらったのは私だ。
コメント